布置の世界観





口数多くないその子は言いました。



「ぼくは、いてもいなくても同じような存在」



その、ぼそっと呟いた言葉に

自分で驚いているようでした。



そんなふうに思っていたんだ

こんな言葉が、ほんとうは発したかった言葉だったんだと自分で自分に驚いてるみたい。



「君はいなくちゃならない存在だよ」



という励ましよりも



「いてもいなくても同じって、そんなふうに感じたんだね」と



ただそのままに共振する。

そこに触れたことへの信頼、ただそれだけ。



何気ない、けれどとても大事な瞬間に、私の身体にも電流が流れます。



そして、その一コマのすぐに事件が起きました。



事件とは、ある気の強い子が彼に一言言い放ちました。「おまえ、学校こいよ」



それは彼にとって強烈でした。



自分の中の気づきと

現実のその言葉とが

まるで化学変化を起こしたように



何かが崩壊、もしくは再生したのでしょうか。わかりません。



そして「わかったよ」と言い放ち、それは腹の底から出たような声でした。消えそうな声ではなく。



こちらが驚かされます。

次の日から教室に行くことになったのですから。



彼の気づきと

日常の何気ない一言が結びついた瞬間なのでしょうか。




「あなたは価値のある存在」とか

「学校にこいよ、なんて強制的な言葉は言ってはいけない」とか、はたまた「おまえと言ってはならない」とか



そんな上っ面は

生きてる「人生」には関係なく



起きることは

いつも完璧なタイミングで起こります。




私は「布置(ふち)」という言葉が好きです。



何の因果関係のないふたつ以上の事柄が、同時か、または連続して起きる現象ことを布置(または、コンステレーション)と言います。



プレイセラピーを学ぶ中で初めてこの言葉を聞いたとき、星座みたいな配置が浮かんで、すごく嬉しかった記憶があります。



きっと日常にはたくさんの布置(ご縁、タイミング、シンクロニシティとも言えるでしょうか)、そんなことだらけですね。




カウンセリング、心理療法の醍醐味のひとつは、何かをこうしよう、というコントロールや操作ではなく、布置を見守ることかもしれません。




母子は特に、こういうことが頻繁に起きるので、本当に「見えない臍の緒」というのがあるのだと思います。



たとえば母が、ずっと我慢していた涙を流したちょうど同じ頃、子どもも初めて友達の前で大泣きしたというエピソードを後から聞いたこともあります。



母がすっきりして帰り、その影響を受けて我が子も心晴れやかになったというような「原因と結果」があるわけでなく、「ほとんど同時」に起きたのですから、どちらが先なのかわかりません。



ただ、そのタイミングで起きただけです。



「原因と結果」の世界は、責任と緊張、境界線の侵害など色んなことが起きます。




一方で「布置」の世界観は、



まるで星座の美しさ

日本庭園の美しさのようです。



日本人の美意識に近く、それを観る時の感性で人を観ることができたら、ただただ素敵だなと思うのです。





初々しい羽がまだくっついてる
トンボの羽化に立ち会う

梅雨空の下
まだうまく飛べないだろうに
驚かしてごめん
ちょっと早く飛び立たなきゃならなかったね


頼もしい我が子に姿を重ねます




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今日もこれから、新しい出発にであいます。どんな出会いがあるのか、楽しみです。メニューはこちらからご覧ください。