教育の中の祈り

 

食欲、排泄、睡眠

これらはコントロールしようと思うほど、ドツボにはまる子育ての難所。

 

 

コントロール外したら

生活そのものの、

日々のよろこび。

 

 

今の教育は好き嫌いなく何でも食べることが主流だ。

 

 

ちっさく野菜切って

もう繊維質しかないんじゃないかっていうくらいに小さく切って、お口に入れてごっくん。

 

 

「食べさせる」教育は、コントロールの強い矢の目線を子どもに注ぐ。

 

 

本来は、大人が美味しそうに食べてたらそれでいいのに。

 

 

食べさせられた

努力のある食事

 

 

そんなん美味しいのか。

少しでも食べなくてならない…なんて

 

 

作る人と消費する人の隔離。作った人がみたらどう思うかの想像力が欠けていること…それに気づかない教育者の愚かさ。

 

 

好き嫌いなく食べなくてはならない、出されたものは感謝して食べなくてはならない、世の中には食べられない人もいるんだから、感謝して食べなくてはならない

 

 

こうしなくてはならない!

っていう概念で食べるなんて生き物としてどうなんだろう。

 

 

私も自分が苦労したり失敗してきたことだからこそ

食べさせる教育のバカらしさを強く思う。

 

 

教育って

心を育てるのって

 

 

たとえばこういうことと思う。

 

 

自分によそられた食べ物から

少しだけお椀にとって

それを地球の裏側でお腹を空かせている人のために祈りを込めて思いを届けることだったり、食べ物に不自由ないことを支えてくれているおかげさまに手を合わせること。

 

 

私の実家ではお盆になると、ちょうちん持ってお墓に行き

ろうそくに火をつけて、その火にご先祖様を乗せる。

 

家の仏壇に連れて帰るのだが、

火が途中で消えると、またお墓に戻ってたましいを乗せてくる。

 

 

そんな、大切に大切に火を運んだ子ども心は宝物で。

 

 

大切な何かを、大事にする所作だったり腰の低さ、手の運び、足はこび・・・

 

 

全身全霊でそういうことから学んだように思う。

 

 

お線香をあげるときは、実家の風習で2本あげる。

でもどこかのお寺さんに行った時は、1本余分にあげる。無縁仏さまのために。

 

心を寄せることは日常でふとした時に湧いてきて

 

例えば

洗い物をするとき

清らかな水をみて

洗い流してくれるありがたさ

 

 

いま泥をかき分け、匂いと暑さと粉じんと戦ってる人たちへ

水に意識を向けてありがたさと清らかさを送ること。

 

 

そういうことを日常のふとした時にできることをすること…日々の祈り。

 

 

七夕に、お願い事を書くだけでなく、教育の中に祈りが忘れられてしまわないように、と思っています。