もし子どもが何か自由なことをしたときに

 

「汚い、みっともない

人の迷惑だから

そんなことしたら嫌われるよ」

 

という言葉をかけているとき、

子どもにかけているつもりの言葉のシャワーは、実は自分にかけているもの。

 

 

私がわたしに向けて発している言葉ならば

子どもを巻き込まずに自分の中で感じてみよう。

 

 

子どもを巻き込み、境界線を越えて侵略するのは、

誰かと融合していくことではなく、逆に本当の意味で相手と出会うことを阻んでしまう。

 

縛りあい、干渉しあい、束縛しあい

これだけやってあげてるのに

これだけ我慢してるのに、の押し付けになっていく。

 

子育て中の女性は

どれだけ自分の自由を犠牲にしているんだろう。

 

もし何かジャンプしたいことがあったり

自分が心から望んでいることがあったら、

 

その時、どんな声が聞こえてきますか?

 

 

子どもがかわいそう。

自分だけなんてわがままかな。

周りからどう思われるだろう。

 

それがきっと

小さい頃から、自分の中にいる子どもに植えつけられている制限だから、せっせとその制限を外していく作業をしていくしかない。

 

わたしが自由を謳歌しても誰も傷つかない。わたしの自由は誰かの自由を支えてる。

 

自由のない愛なんて、ないんだと思う。

自由を謳歌しても孤独にはならないし、孤独を通ったとしても、それは個になるための最善なんだと思う。