何か、子どもに問題があったときに

まず親が思うのは

「私の育て方がまずかったから」

というもの。

 

そして他の子は輝いて見えるのに

どうして家だけ・・・

と、悩みのスパイラルに入っていきます。

多くは、罪悪感と無価値観に集約されます。

 

世間の目も、まだまだ子育てに厳しいものが多くあって

たとえば路上で子どもが癇癪をおこしていたりしたら

「愛情不足ね」とか

「甘やかしすぎだから」など。

 

その人の持っているフィルターで

原因を特定されて子ども親もジャッジされます。

 

 

手を出したら甘やかしすぎで

手を出さなかったら愛情不足だと言うのは

決まり文句みたいなもの。

 

 

そんな過去を生き続ける世間の目の中で窮屈さを味わうか、

それとも自分の中にある真実に出会っていくか、

 

 

どちらで生きたいですか?

という選択を、一つ一つの場面で問われています。

 

 

人は死ぬ時に、

「いかに狭い世界に自分を閉じ込めていたか・・・」と

気づくそうです。

 

 

狭い世界というのは

そういった世間の目に縛られた自分で

いったい誰のために生きてきた人生だったのかと。

 

 

狭い世界というのは、

自分だけじゃないということを、確認し合って安心し合ったり、

もしくは、何かを所有することで自分を主張したり、孤独を隠し続けなければならない世界。

 

 

危険を冒さずに安心だけを求めて

終わりのない所有欲を、その日暮らしで満たし続けるのを続けますか?

 

 

そこから抜け出すためのきっかけとして

「問題」という顔をして起きてくる出来事があります。


自分の子どもが学校にいけない、

発達障がいで問題行動がある、など。

 

 

自分だけどうして・・・っていう気持ち

世間と合わなかった自分は、我が子は

本当はとても尊きもの。

 

 

その人その人のプロセスが

100人いたら100通りあって、

 

そのプロセスは他の誰もまねのできないものだったり

原因はなどもなく

解決する必要もなく、ただ味わうもの。

 

極に行った人にしかわからない世界があって

辛さの極が極まれば、反対側の極に振れていく。

 

どうか、世間に合わなかった我が子と、自分の子育てを

卑下せずに

ひとりひとりの中にある真実を

信頼していってほしいなと

渦中にいる親子さんに伝えたいなとそう思うのです。